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| >>お金は欲しかった? うん、『パン』が欲しかった。 誰もが若かれし頃に抱く、夢、希望 海の向こうには何かがある!! そう信じてワーキングホリデービザを 取得し、 旅立ったのは1990年オーストラリアでした。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 経営という孤独 〜商売は誰も教えてくれなかった第1章〜 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 あてがある訳けでも無い。 英語が堪能だった訳でもない。 ボストンバッグひとつ、ギターケースひとつ、 車を売って作ったわずかな所持金もって 舞降りたのは、 早朝、オーストラリア シドニー空港だった。 とにかく、安宿を探そうと、 『地球のあるき方』←有名な世界版ガイドブックです。 を開き、その場所へ向かいました。 着いた先はキングスクロス 表の顔は南半球の最大の繁華街といわれ、 裏の顔は最も治安の悪い、安宿街でもあったのです。 歩き疲れ、辿りついた果てコリアンが経営する、 バックパッカーでした。 (バックパッカーとは要するに、バックパッキンを背負って 旅する、プアーな若者を相手にした安宿の事です。) 部屋代は日本円にして一泊¥500位、 一週間分をまとめて 、前払いで支払うシステムでした。 この部屋には、黄色い人種、白い人種、黒い人種 そして、男女関係無く、7、8人が同じ部屋で暮らしています。 私が、いつもご飯に生卵をかけて食べたり、 お茶漬けを食べたり、そんな姿が外の人から見ると たいへん、珍しかったらしい。 やはり、外国人には日本食といえば、 すし、スキヤキ、天ぷらといった料理しか 頭にないんでしょうね。 そんな中、大阪から僕と同じように、ギターを 持ってやってきた旅人と出会いました。 歳も同じぐらいで、飛ばし合うジョークも似てたんですよね。 すぐに二人は打ち解けた。 生活に慣れはじめると、職探しを考えました。 相棒に持ちかけました。 >>なぁ、街頭にでて二人で演奏して稼ごうとよ僕。 通りすがる人々や観光客を相手に ストリートにでて演奏しはじめました。 多い時で日に20$程稼ぎました。 日本円にして¥1600でしたねぇ。 しかしこちらは物価が安いので、 食べて、寝るぐらいの生活には問題なかったです。 しかし、やっている事は単なるプロの真似事。 煮詰まる二人。 シドニーに来て3ヶ月ほど過ぎた頃 わたしは相棒に別れを告げ シドニーからおよそ3000KM離れた 、オーストラリア最西端の街、パースへ向かいました。 せっかく、オーストラリアに来たんだ。 シベリア鉄道の次に走行距離が長いといわれる インディアンパシフィック号に乗り、 旅路3泊4日かけ、パースに向かいました。 >>次のコラムに進みます。 |
![]() 店主、ハタチの頃です。 いざ、オーストラリアへ。 ![]() ![]() ![]() シドニーのジャパニーズレストランにて。 いつまでも、こういきたいものです。(笑) |
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